米国ミシガン大学医学部神経科教授
1983年 文理学部哲学科卒業
東京女子大100周年おめでとうございます。 “101のストーリー”への卒業生の方々の投稿を読みながら、あらためて素晴らしい大学で学べたと感謝しています。私は1979年入学ですから、ほぼ40年前に女子大のあの美しいキャンパスで入学式をしたことになります。
東京女子大は実は国立大学の滑り止めでした。”浪人“はするなと父からいわれていましたので、女子大に行きながら翌年受験しようかと考えていましたが、いったん女子大にはいると静かで美しいこじんまりした学内、また、最初に取った哲学の授業で、1つの現象をいろいろな角度からみること、また、歴史の中で化学のみならず科学、数学まで、宗教とどれほど密接に展開していったかなどを学んで、大変刺激を受けました。ここで4年過ごすほうがガサツな(すみませんが、当時の国立大学は綺麗とはまったくいえなかったです。。)国立大学に行くよりはよいと思うようになりました。入学してから3か月ほどで、この決断をしたのをおぼえていますから、それほど女子大の学びの環境がよかったのだと思います。 “自分”がどう考えるか自由に発言する機会、”他者の考え“がどういった環境、文化からでてきているのか深く考察することなど、人生で様々な方に出会ってお互いを批難することなく理解しあって社会にいきる根本、記憶ではない学びの喜びを女子大で優雅に学べたことに、感謝しています。
2年生になって躊躇なく哲学科に行きました。(当時は2年生の時に学科を選ぶことになっていました。)3年の時に3か月ほどドイツに言語留学をしたのもよい経験でした。卒業後、しばらく某証券会社の総合研究所で刺激のない生活を送った後、大学院入学を考えていた際に女子大の最初の交換留学生として、姉妹大学であるアメリカ、Massachusetts 州にあるMount Holyoke大に光栄にも留学させていただきました。このことは、以前、同窓会会報62号(2016年、3月)の”道“という欄に書かせていただきましたので、ここでは省きますね。留学して西洋文化に抵抗なく入っていけたのも大学で宗教学の授業をかなりとったことにも由来しているかと思います。
大学卒業の際は大学教授になろうなどおもってもいませんでしたし、アメリカでの博士課程修了後も仕事先は自分の専門というよりは企業に勤めている主人(大学院の時に結婚しました)の仕事の転勤でいった先々で子育てと両立できることを第一条件で仕事をしてきました。転勤するたびに以前の大学と共同研究を継続することが多く、そのため色々な研究費をとってくる機会に恵まれ、アメリカの研究機関から高額研究費所得者に指定される名誉もいただけました。実際はそうなろうと決意したわけでもなく、主人の転勤に従ったためで、家族第一主義が実は自分のCareer 発展につながったようです。
専門は認知症で、今、主に行なっている研究は孤独老人(会話の機会もなく社会的に阻害されている高齢者)を対象にInterviewersと毎日、Internet でビデオチャットをしていただき、それが脳細胞の連結関係に影響をあたえて認知症の発生を遅らせることができるかを研究しています。これまで、高齢者の方には研究対象になっていただくばかりで直接な利点がなかったので、今回は高齢者の方のQuality of Life が上がることを目的に、一人でも多くの高齢者が孤独からのがれて認知症発症をおくらせられればと願っています。
東京女子大の卒業生にはいつも誠実に、焦らずに堅実にやらなければいけないことをやり遂げる方が多いと思います。女子大の犠牲と奉仕の精神を生かして、社会に貢献してください。