著述編集者・もえ編集室代表

1971 年卒 文理学部哲学科卒業

 

Service and Sustainability

1969 年、3 年生のプレーデーの日から景色が変わりました。中教審答申に反対して学生大会で スト決議があがったのです。翌日登校すると、哲学科 3、4 年生で自主ゼミをしようという流れ になりました。大学とは何か、何を目的に入学したのか、世界とは、社会とは、そして私とは何かを問うプログラムの始まりでした。

それまでも、世の中おかしなことがたくさんあると感じ、とりわけ性差別を意識していました。
しかし、多様な差別があることは知りませんでした。社会問題に関心を持つ先輩たちが差別-被差別の現場に連れ出してくれました。女性問題しかり、「在日」「部落」「障害」などのスティグマによる差別の現実は「排除」でした。大学の授業が空疎に感じられ、学業に戻ることはありませんでした。それでも教師になる夢は捨てがたく、3 年生の単位は取りました。4 年生は卒論だけ 出して中退しようと目論みましたが、教師の配慮に甘んじて卒業しました。

それから 15 年後、3 人目の子どもが 3 歳を迎えるころでした。「在日」問題を考えようと地域の在日団体を訪れましたが相手にしてもらえず、子どもを幼稚園に置いては図書館で古い新聞を繰っていました。そんなある日のこと、近所に住むフィリピーナたちが戦前の朝鮮人の姿とオー バーラップして見えました。それで、彼女たちと友だちになりたいと新聞に書いたところ、ネリ ーナというイタリア人シスターと出会い、いっしょにその宿舎を訪問するようになりました。い つのまにか、教会の英語ミサを手伝い、異文化の国で出産、子育てをする彼女たちを支援していました。それは、家父長制や性差別、アジア蔑視を可視化できる現場でした。

30 年前、シスター・ネリーナとビルマ少数民族の少女たちの教育を支援するアジアの仲間たち の会を立ち上げ、現在では 200 人を超える子どもがスポンサーを得て就学しています。また、インド人シスターたちとともに困窮者を支援する週1回の配食を続けています。支援-被支援の現場で当事者と支援者が対等に接するのは難しいと感じています。外国人や障害者との関係でも同じです。どうしたら対等であることができるのか悩みますが、今は個性や交換不可能な立場を認 めて、双方が出会う場として割り切ろうとしています。

これらは、公平な社会のサステイナビリティを担保する活動とはいえないでしょうか。キリス ト者ではない私は、SS 精神を、“Service and Sustainability”と言い換えています。