東京工業大学名誉教授

 

1969年 
文理学部日本文学科卒業

 

 

 東京女子大学に入学したのは53年前の1965年でした。受験勉強が中心だった高校時代を終えた後の東京女子大学は別世界で、美しく豊饒な学び舎でした。QUAECUNQUE SUNT VERAと書かれた白亜の瀟洒な本館とその左右の並木道に沿った東西校舎での学び、チャペルでの礼拝、万葉ガーデンやシェークスピアガーデンでの憩いは、贅沢で甘美で幸せな時間でした。聖書、ギリシャ悲劇、能楽など時間と空間を超えて自由に学ぶことを満喫しました。

 

 2年生になって日本文学科に入ってからは、国語学では日本語の法則性を見出すことに夢中になりました。同時に文芸作品に魅了されながらも、学問の対象としてどうなのかと疑問を持つようなりました。そのような時に、森岡健二先生から文学作品を科学的に分析する新しい「修辞学」を卒業論文のテーマにしてはどうかと薦められ、取り組むことにしました。しかしながら、学問の素地のない私には無謀な取り組みで、原稿用紙200枚を超える論文を書き終えると、燃え尽き症候群になっていました。

 

 卒業後、無力感に覆われ無為に過ごしていた時に、手を差し伸べてくださったのは、松村緑先生でした。英国のシェフィールド大学日本文化センターで日本語教師を探しているから面接を受けるようにと勧められ、受けた結果、思いがけず採用となり、一年間英国に行くことになりました。未知の世界での仕事は大いに楽しく刺激的でした。

 

 帰国後、これを生涯の仕事にしようと決心しました。そこで、東京女子大学卒業の大先輩である国際基督教大学教授小出詞子先生の下で、日本語教育コース研究生となり、その後東京女子大学大学院修士課程で水谷静夫先生と森岡先生(上智大学に移動後)の下で国語学を学び、日本語教育に役立つ研究を目指しました。その後は非常勤講師を続けながら、40歳にしてやっとのことで正規の大学職員となり、47歳で論文博士として学位を取得しました。

 

スロベニアリュブリヤーナ大学訪問

 不器用な生き方をしてきた私を支えてくださった恩師の先生方の存在がどれほど大きかったか、今になって思いを深くしています。松村先生そして水野弥穂子先生には女性の生き方について折々に諭されましたが、生きて来られたお姿そのものに説得力があり、今も私の支えとなっています。森岡先生、水谷先生には、研究者として探求する真摯な佇まいから多くを学びました。とても遅い歩みでしたが、その後、日本語教育の仕事を定年まで続け、最後の年には日本語教育学会賞を受賞することができたことが少しだけでも御恩に報いられたのではと思っている次第です。

 

 これから長い人生の船出をしようとする若い後輩の皆様には、心から納得の行く航路を選んで進んでいただきたいと思います。苦難があっても、失敗しても、真に自らの心が喜ぶことを貫けば報われる日が来ます。良い旅を祈っています。