エッセイスト

 

1975年
文理学部日本文学科卒業

 

 

クリスチャンだった祖母が、私の東京女子大学入学をたいそう喜んでくれたのを覚えております。

学生の雰囲気は堅実、落ち着いたキャンパスで学ぼうと思えば幾らでも機会はあったのに、怠惰な私は無為に四年間を過ごしました。「君は浅く広く学んだのですね」と卒業を控えた最終面接で先生が仰いましたが、全くその通りでした。

こんな私が皆様に何か申し上げるのは烏滸がましい気がしますが、反面教師としてお読みいただければ幸いです。

 

一年次は所属する組があり生物学の多羅尾四郎先生が担任でした。
この組の方たちとは今でも交流が続いています。学業以外のことには熱心で、フォークグループを作り大学祭で歌ったり、池宮英才先生指揮のメサイア公演にも数回参加しました。

 

日本文学科専攻になって初めてのゼミ、準備不足で松村緑先生に叱られたのが三好達治の演習です。それ以来、調べるということだけは遅まきながら身についたと思います。大学の図書館に資料が無いと、国会図書館まで出かけて調べました。

今はPCなどで手軽に何でも調べられ便利な時代ですが、簡単に分かったことは簡単に忘れてしまう気がします(年齢のせいかも)。

調べる技術は、父の仕事を手伝うようになり役立ちましたし、私自身が本を書く時にも力となりました。また、どんなに調べても間違いはあるということを肝に銘じております。

 

父は童謡『サッちゃん』一曲だけが世間に知られるもの書きでしたが、それでも私は「阪田寛夫の長女」であると紹介されます。

妹が宝塚歌劇団へと進むと、今度は「大浦みずき(妹の芸名)の姉」という呼称が増えました。私は私なのにともがいていました。成績が悪いくせに、就職になると高望みばかりし悉く試験に落ちました。

何がしたいのか分からず、その癖プライドだけは高く、その頃の自分に喝を入れたくなります。結局就職は出来ず、父の書くものの下調べをする自称「私設秘書」の時代が長く続きました。

 

学びたい、やりたいことが早くから見つかる人、尚且つそれを職業に出来る人は幸せです。しかし、そんな幸運に巡り合わず、巡り合うべく努力もせず、私のコンプレックスは膨れる一方でした。

もし今私のように逡巡している方がいたら、真になさりたいこと、なすべきことは、いつか見つかると申し上げたい。
その時が、人によって違うだけだと。

 

亡くなった妹と父について書き、念願であった本を出すことが出来ました。父の敬愛する作家・庄野潤三さんの言葉があります。

「ここに(家庭を描こうとする時)作者に最も要求せらるるものは厳正なる歴史家の眼である」

今は「歴史家の眼」を失わず、家族のことを伝えていくのが、私に与えられた役目なのだと思っております。

 

最後になりましたが、東京女子大学の次の百年が益々素晴らしいものとなりますよう、そして、学生が安心して学べる平和な時が続きますようお祈り申し上げます。